2009年10月27日
がんばれ
子供のころから当たり前のように言っていましたこの言葉。
でも、がんばれって励ますことが逆に相手の負担になることもあるということに気づいたのは看護学生のときでした。
「看護婦が患者さんに向かって、がんばれと励ましてはいけない。
患者さんはもう十分がんばっているんだから、かえって追い詰めてしまうことになる」
という主旨の講義がありました。
そのとき初めて「そういう考えもあるんだ」ということに気づきました。
だって、昔から困っている友人や、何かの相談をされた時には「がんばって。私も応援するから!」「がんばれ、ファイト」
など当たり前のように言ってきませんでしたか?
じゃあ逆に、がんばれって言われて本当に励まされたことってあるのかなあ?
うーん、と記憶をたどってみるけど・・・どうだろう。
試験前に家を出るとき「がんばってこいよ」、友人同士で「がんばろう!」などといって励ましあうことは、
人によっては「よーし」って思うかもしれないけど、私なんかはかえって力んでしまうというか、余分な力が入りすぎてしまいます。
すると、本当は楽にできるかもしれないのに、自分で大変にしていたりして。
がんばれって言うことのすべてが相手にプレッシャーを与えるとは限らないとも思うけど、言い方にもよるんでしょうか。
病棟看護婦として働いていたころ、血液疾患の患者さんで父親と良い関係を保てていない方がいました。
父親という人はほとんど病院に見舞いには来ていなかったようです。
患者さんは、幾度もきつい抗癌剤の治療を行い、副作用に耐え、入退院を繰り返していました。
入院の合間に自宅にいるときは、父親から「もっとがんばれ、がんばれ。がんばらないから病気が治らないんだ」と
いうようなことを言われていたようです。
その話を聞いたとき、背筋が寒くなりました。「あれ以上、どうやってがんばれって言うんだろう?」
もちろん、親としての気持ちは察するに余りある、というところですが・・・
催眠療法のクラスで幼児期退行などをしていたころは、父から勉強を「がんばれ、がんばれもっとやれ、もっとやれ」
と叱咤され続けている場面があり、涙が止まりませんでした。
私の心は「もうできないよ、これ以上できないよ」と悲鳴を上げていたことが思い出されます。
看護婦時代も、すべてに行き詰まって仕事をやめようか悩んでいるときなども、
がんばれっていう言葉ほどやる気をそぐものはなかったな。「これ以上どうしろって言うの!」って。
日本の経験した戦争や、近年の大きな地震などでは、被害を受けた人たちが「みんなでがんばろう!」と一生懸命になり、
その結果、経済成長や復興を実現してきました。
私も、病棟の夜勤であまりの忙しさ、大変さに一人で押しつぶされそうになっているとき、
すれ違った仲間の看護婦と目があったり、一言二言「がんばろう」みたいな声をかけあっただけで安心し、
何とかこなしていけた経験は多くあります。
同じ境遇の仲間同士で「一緒にがんばろう」って言うのは本当に励まされるものなんでしょうか。
「がんばれ」より「がんばろう」ならいいのかな。
以前にも触れましたが、クレアボヤンススクールに入って一番最初に先生から
「がんばってやらないでください」と言われました。
「がんばらなくてもオーラは見えるようになる。むしろがんばらないほうがエネルギーは簡単に扱えるようになる」。
「がんばっても中々うまくいかないけど、がんばらないと今よりもっと状況が悪くなるかもしれない」のなら、
今がんばってやってることは自分の行く道ではないかもしれない。
一つの指標としては「それやってて楽しい?」と自分に聞いてみるとよくわかるかもしれません。
でも、日本には昔から「楽しむことは良くないこと」という根強い道徳観念があるので、
楽しくないと言う理由でそれをやめる理由には中々ならないかもしれませんが。
でも、何しろ楽しいかどうかは重要ですよ。
看護学校での講義から、私は患者さんだけではなく、誰に対しても「がんばれ」を言わないように気をつけるようになりましたが、
つい、言いそうになることがあります。
そんな時は結構無責任にこの言葉を使おうとしていることに気づきます。
言う側にも理由があって言っているのかもしれません。
誰かを励ますことで自分も奮い立たせる必要があるとか。
その他、がんばれの言葉の裏にはこんなメッセージを送っていることもあるかもしれません。
「私はあの人にがんばれって言ったのに失敗したのはがんばりが足りなかったからだ。
私の言うことを聞いてもっとがんばっていれば失敗はしなかっただろう。
(私の言うことは正しい。私は良い人間である)」
その人の言葉と、実際にその人が送っているエネルギーには大きな隔たりがあったり、
異なるメッセージだったりすることはよくあります。
でも、がんばれって励ますことが逆に相手の負担になることもあるということに気づいたのは看護学生のときでした。
「看護婦が患者さんに向かって、がんばれと励ましてはいけない。
患者さんはもう十分がんばっているんだから、かえって追い詰めてしまうことになる」
という主旨の講義がありました。
そのとき初めて「そういう考えもあるんだ」ということに気づきました。
だって、昔から困っている友人や、何かの相談をされた時には「がんばって。私も応援するから!」「がんばれ、ファイト」
など当たり前のように言ってきませんでしたか?
じゃあ逆に、がんばれって言われて本当に励まされたことってあるのかなあ?
うーん、と記憶をたどってみるけど・・・どうだろう。
試験前に家を出るとき「がんばってこいよ」、友人同士で「がんばろう!」などといって励ましあうことは、
人によっては「よーし」って思うかもしれないけど、私なんかはかえって力んでしまうというか、余分な力が入りすぎてしまいます。
すると、本当は楽にできるかもしれないのに、自分で大変にしていたりして。
がんばれって言うことのすべてが相手にプレッシャーを与えるとは限らないとも思うけど、言い方にもよるんでしょうか。
病棟看護婦として働いていたころ、血液疾患の患者さんで父親と良い関係を保てていない方がいました。
父親という人はほとんど病院に見舞いには来ていなかったようです。
患者さんは、幾度もきつい抗癌剤の治療を行い、副作用に耐え、入退院を繰り返していました。
入院の合間に自宅にいるときは、父親から「もっとがんばれ、がんばれ。がんばらないから病気が治らないんだ」と
いうようなことを言われていたようです。
その話を聞いたとき、背筋が寒くなりました。「あれ以上、どうやってがんばれって言うんだろう?」
もちろん、親としての気持ちは察するに余りある、というところですが・・・
催眠療法のクラスで幼児期退行などをしていたころは、父から勉強を「がんばれ、がんばれもっとやれ、もっとやれ」
と叱咤され続けている場面があり、涙が止まりませんでした。
私の心は「もうできないよ、これ以上できないよ」と悲鳴を上げていたことが思い出されます。
看護婦時代も、すべてに行き詰まって仕事をやめようか悩んでいるときなども、
がんばれっていう言葉ほどやる気をそぐものはなかったな。「これ以上どうしろって言うの!」って。
日本の経験した戦争や、近年の大きな地震などでは、被害を受けた人たちが「みんなでがんばろう!」と一生懸命になり、
その結果、経済成長や復興を実現してきました。
私も、病棟の夜勤であまりの忙しさ、大変さに一人で押しつぶされそうになっているとき、
すれ違った仲間の看護婦と目があったり、一言二言「がんばろう」みたいな声をかけあっただけで安心し、
何とかこなしていけた経験は多くあります。
同じ境遇の仲間同士で「一緒にがんばろう」って言うのは本当に励まされるものなんでしょうか。
「がんばれ」より「がんばろう」ならいいのかな。
以前にも触れましたが、クレアボヤンススクールに入って一番最初に先生から
「がんばってやらないでください」と言われました。
「がんばらなくてもオーラは見えるようになる。むしろがんばらないほうがエネルギーは簡単に扱えるようになる」。
「がんばっても中々うまくいかないけど、がんばらないと今よりもっと状況が悪くなるかもしれない」のなら、
今がんばってやってることは自分の行く道ではないかもしれない。
一つの指標としては「それやってて楽しい?」と自分に聞いてみるとよくわかるかもしれません。
でも、日本には昔から「楽しむことは良くないこと」という根強い道徳観念があるので、
楽しくないと言う理由でそれをやめる理由には中々ならないかもしれませんが。
でも、何しろ楽しいかどうかは重要ですよ。
看護学校での講義から、私は患者さんだけではなく、誰に対しても「がんばれ」を言わないように気をつけるようになりましたが、
つい、言いそうになることがあります。
そんな時は結構無責任にこの言葉を使おうとしていることに気づきます。
言う側にも理由があって言っているのかもしれません。
誰かを励ますことで自分も奮い立たせる必要があるとか。
その他、がんばれの言葉の裏にはこんなメッセージを送っていることもあるかもしれません。
「私はあの人にがんばれって言ったのに失敗したのはがんばりが足りなかったからだ。
私の言うことを聞いてもっとがんばっていれば失敗はしなかっただろう。
(私の言うことは正しい。私は良い人間である)」
その人の言葉と、実際にその人が送っているエネルギーには大きな隔たりがあったり、
異なるメッセージだったりすることはよくあります。
Posted by ピュアライト at 11:33│Comments(0)
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