2009年10月27日

私の職業4

それにしても、どうして人は病気になるんでしょうね。
学ぶために生れて来ているから、と言ってしまえば終わりなんですが・・・

私の亡くなった友人は、何度か入退院を繰り返したころには
「発病当時は精神的にも肉体的にもとても大変だった」
と、笑って言えるほどに強く成長していました。
とてもおしゃれな人で、私はいつもその女らしさに憬れていました。
治療のための抗がん剤の影響で髪が抜け、頭にバンダナをしていましたが、
「私の頭の形ってヘンなんだよー」なんて笑って言われると、
なんと返事をしていいのか分かりませんでした。

看護婦時代には友人と同じような病気になった10代、20代の女の子もいました。
彼女達も、計り知れないほどの肉体的・精神的苦痛を乗り越えていくうちに、
確実に強く成長していらっしゃいました。

人は成長するために病気と言う手段を選ぶのでしょうか?
又は、臨終の場面でその成長を遂げる人もいるでしょう。
周囲の人に自らの死を体験させる事で、周囲の成長を促す人もいるでしょう。
(全ての死がその意味を持つと思いますけど)
―――以下、心の会話―――
例えば、何かの宗教団体に入って、話しを聞いたり、お祈りをすると自動的に成長するんだろうか?
信仰するといっても、何を?
すべてを捨てて出家したら、私は楽になって悟りを開いちゃうんだろうか?
でも、修行は大変そうだし、全てを捨てるなんてできないしなー・・・
おいしいものも食べたいし、結婚して子供も欲しいしなあ。
修行って、一生を捧げなくちゃだめなんだろうなあ。それはできないや。
(修行が辛いものだっていうのは、偏見かもしれませんが・汗)
日常生活で使えて、今よりいろんなことがわかって、心が楽に生きて行ける方法はないかな?
そうだ、自分がなんでいつもこんな風に苦しくなるのか、その原因が知りたい。
原因がわかれば対処の方法もあるんじゃないだろうか??

私は自分で意識して霊的な成長をしたい。
そうしなければ私は壊れてしまう。この八方塞がりの状態を破って生きて行くには、
後はこれしか道はないんじゃないか?
――――――
こんなふうに思うようになりました。
当時は、ここまではっきりと「霊的な成長」という意識はありませんでしたが、
成長したいのは体でも心(精神)でもなく、その上の魂や本質のレベルのものだ、
という漠然とした思いはあったと思います。

私の疑問に答えてくれたり、ヒントを与えてくれる人も、出来事も、
自分の外側の世界からは得られませんでした。
外側の世界からの情報、つまり自分以外の人の言った言葉や、親、教師、
もっとあいまいに社会の常識などからの言葉では、自分の中にしっくり入ってこないんです。
言われていることは頭では理解できるんだけど、じゃあどうしたらいいの?ってところがわからない。
その答えは誰からも得られない。
つまり「答えは自分で見つけるしかない」という所に、やっと自力で辿りつきました。

そんな頃、催眠療法と出会ったのです。
「自分の前世が分かったら、今自分が悩みぬいてしまっている原因が分かる」気がして、
催眠療法士養成のクラスに通い始めました。
実際やってみたら、ただ前世が分かっただけでは癒しにはつながらないんですが、
それでも催眠療法のクラスに通っている時は毎回新たな発見があり、
新しい自分に生まれ変わっていくのがはっきり分かりました。
当時は看護婦を続けながら通っていましたが、周囲の人に対する見方が変わって行きました。
少しづつ楽になっていくようであり、また新たな自分が発見できたことで、
自分のおかれている状況とのギャップが強くなり、新たな辛さも生れて来たのですが。

自分の心が辛い原因が、クラスの中で行う幼児期退行や前世退行、先生の話、
クラスの仲間同士の励まし合いなどで、だんだんと「癒されて」いきました。
クラスは6ヶ月で終了し、その時点では大分前向きになっていましたが、
まだまだ知らない事が一杯ある事も分かりました。
もっともっと、楽に生きる道を求め始めました。
そして、また出会ってしまいました・・・現在やっている、リーディングとヒーリングのクラスに。

病院の3交代では、クラスのスケジュールとのやりくりが難しいため、
退職してリーディングとヒーリングのクラスに通うことに決めました。
やっと入った病院を退職するのはとても勇気が要りましたが、
ガマンしてまで何かを続ける事は、もはや出来ませんでした。
「知ってしまった今では、知らなかった昔には戻れない」ってとこでしょうか。
様々な紆余曲折はありましたが、やっと心から好きな事を見つけました。
ヒーリングやリーディングをしているときは、とても楽しくて幸せです。むふ。

(おわり)   


Posted by ピュアライト at 11:19Comments(0)職業

2009年10月27日

私の職業2

憬れの看護婦になった私は、「これでやっと人生の中で一番素晴らしい自分になれるんだ」と、意気込んでいました。
配属されたのは内科病棟です。ここは血液疾患患者のためのクリーンルームもある病棟で、
白血病や悪性リンパ腫、骨髄腫などの患者さんが約半数いらっしゃいました。
後で分かった事ですが、この病棟の婦長さんは、私の亡くなった友人が入院していた時も
同じ病棟の婦長で、彼女の事も知っていました。ここに来る意味があったんだと思います。

ずっと自己探求を続けてきた私ですが、いつもとても大事な事に気付かずにいました。
クレアボヤンス的表現をすると、「今の瞬間にいない」という事です。
いつどこで何をしていても、「今の瞬間」を幸せに感じられなければ、いつになっても幸せは訪れないのです。
それまでの私は、常に未来を夢見ていました。
「この仕事は本当に自分が求めている仕事じゃないから辛いし、楽しくないんだ。
私はもっと自分にあった仕事に就けば必ず幸せになれる!」と信じていました。
現実逃避ばかりしていたのかもしれません。
次の新しい仕事を見つけ、新たな世界に飛び込んでは物足りなくなり、また次の仕事を探す、という事の繰り返しでした。
未来を見続けると同じに、過去にも縛られたままでした。
幼い頃のトラウマや、両親の不仲から来る怒りなどをバネにしていました。
未来を夢見るのも、過去の悔しさをバネにするのも、一見バイタリティに溢れた良い事の様に感じます。
でも、いつも「今の瞬間にいない」ままだとすると、一体いつになったら幸せになれるんでしょう?

まあ、とにかく大変な思いをして看護婦になった訳です。必死でした。
まず、つまずいてしまったのは年令の壁です。私は29歳で新人です。
29歳というと、順調に来ていれば看護婦としては頼りにされるお年頃です。
分かっていた事ですが、自分より年下の先輩達が病棟の中心になって働いているのを見て、愕然としました。
若い先輩たちに手取り足取り教えてもらわなくては何も出来ない私。何をやってもうまくいきません。
「今が一番大変なんだ、自分がなれる最高の職業に就くことができたのだから」と、毎日が緊張の連続です。

そんな私も半年くらい経つうちに何とか、一人でも動けるようになってきました。
同僚や先輩たちとも笑顔で接する事が出来る様になり、看護婦としてのやりがいも分かりかけてきたような・・・

(つづく)   


Posted by ピュアライト at 11:17Comments(0)職業

2009年10月27日

私の職業

子供の頃の夢って何だっけ?・・・お花屋さんだの、保母さんだの考えていたのかな?
その中に看護婦の夢もあったような気がします。
私は小学校5年生くらいの時から、進路を漠然と考え始めていました。
それまでは勉強も大っ嫌いで、よく両親に怒られていたのですが、
ある日突然やる気になって勉強を始めたので、親も驚いていました。
「大人になるって、これから受験とか一杯やらなくちゃならない・・・面倒くさいなあ」と
大きな絶望感も感じていましたが。
高校受験の頃、仲の良い友人のひとりが准看護婦学校に入って看護婦になる道を選びました。
(当時は中学卒業と同時に、定時制高校に通いながら准看護婦学校にも通える、というシステムがありました)
その話を聞いた時、妙に焦りを感じた事を覚えています。
でも私は普通高校に通う事しか考えられず、
「私が看護婦になるにはかなり遠回りしなくちゃならない」と、なぜかその時思いました。
やりたいことが一杯あるから、きっと素直に看護学校には入らないだろうと分かっていたんでしょうね。
自分は看護婦になるだけじゃ絶対収まらないって。私、欲張りなんですよ(^^)V

高校を卒業して、就職(某デパートの販売員)

専門学校(コンピュータープログラマーになるべく、情報処理の資格をとる)

神奈川県内の会社に就職し設計の仕事に就く
という2・3年サイクルで自分探しをしていた頃のことです。
高卒で入った某デパートの同期の友人が白血病で緊急入院してしまいました。
彼女は私より5歳年上でしたが、なんでも相談出来るお姉さんのような存在でした。
入院したという話を聞いた時から「私は看護婦にならなくてはいけないんじゃないか?」と思うようになりました。
2年間の闘病生活の後、彼女は亡くなりました。
その時も看護婦にならなくちゃいけないんじゃないの?と何度か思いましたが、
すでに神奈川県内での設計の仕事が楽しくなっていたし、また受験して大変な思いをするなんてとんでもない!無理無理!
当時は「男性並に働ける女性になる」事を目標にしていたので(!)、
片道1.5時間の通勤と、多い月では残業80時間、という生活をしていたし、やりがいも感じていました。

ところが、というか当然というか・・・
友人の死から半年くらい経った夏、そんな生活があだとなり、私は過労で入院してしまいました。
幸いそれほどひどい病気ではなく、6人部屋の中では一番若くて元気な患者だったので、
向かいのベットのおばあさんがちっとも食欲がでないのを、看護婦さんと一緒になって心配したり、
時々おせっかいをやいたりしていました。
ある日看護婦さんと一緒におばあさんのベットサイドに立ち、「食べないの?困ったねえ」
なーんて言っている時、「はっ!!」と気がついてしまったのです!
「私、白衣着てない!どうしよう、恥ずかしい!!」
つまり、自分はすでに看護婦になっていて、勤務なのにパジャマで出てきてしまった、という妙な錯覚をしたのです。
おまけの極めつけ、その翌日に造影剤という薬液を注射してレントゲン撮影をしたのですが、
その造影剤が体に合わず、全てのレントゲン撮影が終った直後に、
全身の筋肉が「ガツーン!」という感じで、硬くなり縮んでしまうという、一種の急激なアレルギー反応を起こしてしまいました。
両手、両足、首、舌も自分の意志とは関係なく縮んでしまうんです!!
呼吸も苦しくなり、もう死ぬかも?と思いました。
恐いやら苦しいやら、看護婦さんもお医者さんもドタバタしての大騒ぎとなりました。
すぐに適当な処置をしてもらい、しばらくすると体も呼吸も元に戻りました。
とうぜん、撮影を始める前にテストもして異常はなかったんですけどね。
「これはダメ押しかな」と思いましたね。

そこで私はついに決心しました。「看護婦になれってことだわ」
受験の苦労も、看護学校での困難さも想像しましたけど、もう、やってやるよ・・・(++;

翌年の4月に静岡の准看護婦学校に入学、短大の看護2科と無事に進学し、
晴れて29歳で看護師になる事ができたのです。
あ~大変だった。ホントにもう、冗談じゃないわ。20代は勉強で終わってしまったわ。

漠然と何かに導かれているような気がしはじめたのもこの頃かな?
それまではスピリチュアルな事には無縁だったし、霊感のようなものもない私ですが、
短大の看護科に通っている時、原付で4t車に巻き込まれて原付が大破するという事故に遭いました。
ところが私は巻き込まれる寸前のところでスッと立ちあがり、服にかすり傷さえつかなかったんです!
その時、原付のポケットの中に、海外移住する友人のために描いた阿弥陀仏や不動明王など、
4枚ほどの写仏画が入っていたんですが、原付は車体の真中まで引きずりこまれたのに、薄い紙に書いた写仏画も無傷でした。
この事があってから「看護婦になるように動かされたのも私や写仏画が無傷だったのも、
「目に見えない力が動いている」と強く思うようになりました。
(実は短大は入試で落ちたんですが、追加合格ですれすれのところで入れた、と言う経緯もありました。)

そして、念願の総合病院の病棟看護婦になった私を待ちうけていたものは・・・?!
つづく。(たぶん)   


Posted by ピュアライト at 11:16Comments(0)職業