2009年10月27日
深刻と真剣
この二つ言葉の意味、ほとんど同じように思いませんか?
でも実は、結構違うんだということをしみじみ感じます。
どう違うのかと言うと・・・
「深刻」について。
『深刻に考える』っていうと、頭抱えて硬い表情で、うーん・・・と言うようなイメージが浮かびます。
すごく大変そうで、近寄って言葉をかける事も出来なそうな感じですよね。
じゃあ、「真剣」は?
『真剣に考える』と言うのは、深刻よりもトーンが軽いような感じがしませんか?
そして、真剣に考えている間でも笑っている事は出来るような気がしませんか?
真剣に楽しむ、って言葉はあっても、深刻に楽しむって言葉は聞かないですよね・・・
「真剣にクッキーを作る」→「深刻にクッキーを作る」
「真剣に愛する」 →「深刻に愛する」
「真剣に遊ぶ」 →「深刻に遊ぶ」
やっぱり深刻になっちゃうと「やめてくれ~」って感じですね。
深刻に作ったクッキーって、あんまり食べたくないし、深刻に愛されたら重そうだし、
深刻に遊んでもらっても、楽しくなさそうだしね。
じゃ、ためしに『楽しく』をつけてみたら・・・
「楽しく真剣にクッキーを作る」→「楽しく深刻にクッキーを作る」
「楽しく真剣に愛する」 →「楽しく深刻に愛する」
「楽しく真剣に遊ぶ」 →「楽しく深刻に遊ぶ」
真剣になにかをやっている時は、楽しく・軽くできそうですね。
だけど、深刻ってついてると、楽しくなにかをするってありえないなぁ。
私の育った環境や、見ていたTV番組から送られてくるメッセージは、「深刻=良い事」だった様に思います。
汗と涙をながして、深刻な状況から努力して這い上がるのって、美しく描かれる事が多いみたい。
(これは、日本独特の価値観や道徳観念が強く影響していると思いますが)
以前の私は、親や先生から誉めてもらう(認めてもらう)ためには、まじめに努力して、
苦しい所から這い上がる姿を見せていればいいのだと思い、無意識にそうやって行動していました。
いつも心の底には「親(先生など)から認めてもらいたい」意識があって、態度では反抗しつつも、
心の中ではいつも、自分以外の誰かから認めてもらいたがっていました。
私は何度も受験や資格試験を受けて、やっと分かりましたけど、
自分で自分の事を認める事をせず、誰かに認めてもらおうとしているだけでは、
どんなに世間で成功といわれている状況を重ねても満足感は得られませんね。
もっと上へ、もっと上へと追いたてられ、疲れてしまうだけです。
私の例で言うと、
高校を卒業してデパートに勤務し、2年後にコンピューターの勉強をしようと思い立ち、専門学校へ入学しました。
合格した時は母と大喜びしましたが、今思えば、心のそこからコンピューターの勉強をしたかったわけではなく、
「将来の事を考えて資格をとるため」「自分のやりたいことかもしれないから、とりあえず必死で勉強したい」
という理由からの進学だったと思います。
初めのうちは新しい勉強や生活が新鮮で楽しかったのですが、情報処理の国家資格をとるための2年間の勉強は、
徐々に辛く苦しいものになっていきました。(楽しい事もありましたけどね)
半年に1回の割合でその試験はあったのですが、私は3(4?)回目でやっと受かりました。
ここでは常に先生から「国試に受かるには」「いい所へ就職するためには」等の教育をされましたが、
私は勉強を楽しむどころか「先生に認めてもらうには」「いい成績をとって親に認めてもらわなくては」
という思いだけだった気がします。
「これじゃあ苦しくて当然だ!」というのが、今はわかるけど、当時は「他に道はない!」
という勢いで深刻に勉強してたなー。
まあ、この経験が無駄だったとは思っていませんが、「トホホ」な気分なんですよねー。
だって、その国家資格はすでに名前も変わってしまうほど昔のものだし。ウインドウズが発売される前の資格ですよ!
(しかもフロッピーは直径20cm位のサイズだった)
その後は仕事も私生活もコンピューターからは離れていたから、昨今の進化には乗り遅れ・・・
あの苦労は一体何だったの?(うっ。涙)
今となっては履歴書にも書けません。
クレアボヤンススクールに入って、一番初めに言われたのは、
「深刻にやらない事、まじめにやらない事」でした。
いきなり驚いてしまいました。初めから今までの価値観を覆されたんですから。
おちゃらけてやれとか、不真面目・いいかげんにやるのがいい、という訳ではない。
深刻にやらなくても出来る。真剣なのと深刻になるのは違うと。
あぁ、なるほどねー・・・
ところが、聞くとやるとでは大違い。深刻に(まじめに)やるのが通常モードになっている私は、
気がつくと深刻に(まじめに)なってしまいます。
でも、最初はなんだか難しかったけど、楽しければ笑いながらでも自然と「真剣に」やっているんです。
要は自分が楽しいのかどうか。
ヒーリングやリーディングに来る方は、「深刻な」悩みを抱えている事がよくあります。
その問題となるエネルギーを見ると、重かったり暗かったり、
体に悪影響を及ぼしている事も見うけられます。
逆に、本人は深刻に訴えていても、エネルギーは軽く明るいこともあります。
そんな時は、それを伝えるだけで、ぱっと視界が開けることもあります。
どっちにしても深刻なエネルギーって、ない方がずっとスムーズに物事が運びますね。
最近は、深刻になっている時が自分でわかります。
そんな時は「おっといけねえ」と自分で気付くだけで、それ以上はまらずに抜け出す事が出来るか、
抜け出す様に行動する事が出来ます。
以前から私を一番深刻にさせていた状況が再び起きても、「なあぁんちゃって」で終わる様になってます。
「なあぁんちゃって」で終わると、楽ですよ・・・
私、根がまじめっこだから(ほんと)、こう思えるようになるには時間もかかってますけど、
(調子が悪いと、たまにはまってる事もありますけど)
あんなに深刻な状況にはまっている事の多かった私が、「なんちゃって」で済む様になってるって事は、
その気になって変わる事を選択すれば、誰でもそうなれるってことだと思います。
「どんな自分でありたいのか」を自分で選ぶ。それだけです。
でも実は、結構違うんだということをしみじみ感じます。
どう違うのかと言うと・・・
「深刻」について。
『深刻に考える』っていうと、頭抱えて硬い表情で、うーん・・・と言うようなイメージが浮かびます。
すごく大変そうで、近寄って言葉をかける事も出来なそうな感じですよね。
じゃあ、「真剣」は?
『真剣に考える』と言うのは、深刻よりもトーンが軽いような感じがしませんか?
そして、真剣に考えている間でも笑っている事は出来るような気がしませんか?
真剣に楽しむ、って言葉はあっても、深刻に楽しむって言葉は聞かないですよね・・・
「真剣にクッキーを作る」→「深刻にクッキーを作る」
「真剣に愛する」 →「深刻に愛する」
「真剣に遊ぶ」 →「深刻に遊ぶ」
やっぱり深刻になっちゃうと「やめてくれ~」って感じですね。
深刻に作ったクッキーって、あんまり食べたくないし、深刻に愛されたら重そうだし、
深刻に遊んでもらっても、楽しくなさそうだしね。
じゃ、ためしに『楽しく』をつけてみたら・・・
「楽しく真剣にクッキーを作る」→「楽しく深刻にクッキーを作る」
「楽しく真剣に愛する」 →「楽しく深刻に愛する」
「楽しく真剣に遊ぶ」 →「楽しく深刻に遊ぶ」
真剣になにかをやっている時は、楽しく・軽くできそうですね。
だけど、深刻ってついてると、楽しくなにかをするってありえないなぁ。
私の育った環境や、見ていたTV番組から送られてくるメッセージは、「深刻=良い事」だった様に思います。
汗と涙をながして、深刻な状況から努力して這い上がるのって、美しく描かれる事が多いみたい。
(これは、日本独特の価値観や道徳観念が強く影響していると思いますが)
以前の私は、親や先生から誉めてもらう(認めてもらう)ためには、まじめに努力して、
苦しい所から這い上がる姿を見せていればいいのだと思い、無意識にそうやって行動していました。
いつも心の底には「親(先生など)から認めてもらいたい」意識があって、態度では反抗しつつも、
心の中ではいつも、自分以外の誰かから認めてもらいたがっていました。
私は何度も受験や資格試験を受けて、やっと分かりましたけど、
自分で自分の事を認める事をせず、誰かに認めてもらおうとしているだけでは、
どんなに世間で成功といわれている状況を重ねても満足感は得られませんね。
もっと上へ、もっと上へと追いたてられ、疲れてしまうだけです。
私の例で言うと、
高校を卒業してデパートに勤務し、2年後にコンピューターの勉強をしようと思い立ち、専門学校へ入学しました。
合格した時は母と大喜びしましたが、今思えば、心のそこからコンピューターの勉強をしたかったわけではなく、
「将来の事を考えて資格をとるため」「自分のやりたいことかもしれないから、とりあえず必死で勉強したい」
という理由からの進学だったと思います。
初めのうちは新しい勉強や生活が新鮮で楽しかったのですが、情報処理の国家資格をとるための2年間の勉強は、
徐々に辛く苦しいものになっていきました。(楽しい事もありましたけどね)
半年に1回の割合でその試験はあったのですが、私は3(4?)回目でやっと受かりました。
ここでは常に先生から「国試に受かるには」「いい所へ就職するためには」等の教育をされましたが、
私は勉強を楽しむどころか「先生に認めてもらうには」「いい成績をとって親に認めてもらわなくては」
という思いだけだった気がします。
「これじゃあ苦しくて当然だ!」というのが、今はわかるけど、当時は「他に道はない!」
という勢いで深刻に勉強してたなー。
まあ、この経験が無駄だったとは思っていませんが、「トホホ」な気分なんですよねー。
だって、その国家資格はすでに名前も変わってしまうほど昔のものだし。ウインドウズが発売される前の資格ですよ!
(しかもフロッピーは直径20cm位のサイズだった)
その後は仕事も私生活もコンピューターからは離れていたから、昨今の進化には乗り遅れ・・・
あの苦労は一体何だったの?(うっ。涙)
今となっては履歴書にも書けません。
クレアボヤンススクールに入って、一番初めに言われたのは、
「深刻にやらない事、まじめにやらない事」でした。
いきなり驚いてしまいました。初めから今までの価値観を覆されたんですから。
おちゃらけてやれとか、不真面目・いいかげんにやるのがいい、という訳ではない。
深刻にやらなくても出来る。真剣なのと深刻になるのは違うと。
あぁ、なるほどねー・・・
ところが、聞くとやるとでは大違い。深刻に(まじめに)やるのが通常モードになっている私は、
気がつくと深刻に(まじめに)なってしまいます。
でも、最初はなんだか難しかったけど、楽しければ笑いながらでも自然と「真剣に」やっているんです。
要は自分が楽しいのかどうか。
ヒーリングやリーディングに来る方は、「深刻な」悩みを抱えている事がよくあります。
その問題となるエネルギーを見ると、重かったり暗かったり、
体に悪影響を及ぼしている事も見うけられます。
逆に、本人は深刻に訴えていても、エネルギーは軽く明るいこともあります。
そんな時は、それを伝えるだけで、ぱっと視界が開けることもあります。
どっちにしても深刻なエネルギーって、ない方がずっとスムーズに物事が運びますね。
最近は、深刻になっている時が自分でわかります。
そんな時は「おっといけねえ」と自分で気付くだけで、それ以上はまらずに抜け出す事が出来るか、
抜け出す様に行動する事が出来ます。
以前から私を一番深刻にさせていた状況が再び起きても、「なあぁんちゃって」で終わる様になってます。
「なあぁんちゃって」で終わると、楽ですよ・・・
私、根がまじめっこだから(ほんと)、こう思えるようになるには時間もかかってますけど、
(調子が悪いと、たまにはまってる事もありますけど)
あんなに深刻な状況にはまっている事の多かった私が、「なんちゃって」で済む様になってるって事は、
その気になって変わる事を選択すれば、誰でもそうなれるってことだと思います。
「どんな自分でありたいのか」を自分で選ぶ。それだけです。
Posted by ピュアライト at 11:22│Comments(2)
│言葉
この記事へのコメント
真剣と深刻、どこか違うよなと思って、ネットで追いかけてたどり着きました。いいブログですね。
ほんとにそうだと思います。
真剣は楽しい、深刻は楽しくないですhね。
今、東北地震も被災者がたくさん出ていますし、こういう事態は深刻ですが、たくさんの方が何をして差し上げられるかを皆真剣に考えています。被災で苦しんでいる何万人の人、そしてその人たちを助けたいと思っているその何倍もの人。深刻が真剣を生んでいるように思います。
人の善意はこういう大変なときに出てくるものなのですね。
ほんとにそうだと思います。
真剣は楽しい、深刻は楽しくないですhね。
今、東北地震も被災者がたくさん出ていますし、こういう事態は深刻ですが、たくさんの方が何をして差し上げられるかを皆真剣に考えています。被災で苦しんでいる何万人の人、そしてその人たちを助けたいと思っているその何倍もの人。深刻が真剣を生んでいるように思います。
人の善意はこういう大変なときに出てくるものなのですね。
Posted by とよさん at 2011年03月17日 01:55
真剣と深刻、どこか違うよなと思って、ネットで追いかけてたどり着きました。いいブログですね。
ほんとにそうだと思います。
真剣は楽しい、深刻は楽しくないですhね。
今、東北地震も被災者がたくさん出ていますし、こういう事態は深刻ですが、たくさんの方が何をして差し上げられるかを皆真剣に考えています。被災で苦しんでいる何万人の人、そしてその人たちを助けたいと思っているその何倍もの人。深刻が真剣を生んでいるように思います。
人の善意はこういう大変なときに出てくるものなのですね。
ほんとにそうだと思います。
真剣は楽しい、深刻は楽しくないですhね。
今、東北地震も被災者がたくさん出ていますし、こういう事態は深刻ですが、たくさんの方が何をして差し上げられるかを皆真剣に考えています。被災で苦しんでいる何万人の人、そしてその人たちを助けたいと思っているその何倍もの人。深刻が真剣を生んでいるように思います。
人の善意はこういう大変なときに出てくるものなのですね。
Posted by とよさん at 2011年03月17日 01:56