2009年10月27日
事故の話
私のひとりごとの「私が看護婦になったわけ」にもちらっと紹介していますが、原付で事故にあったときの話を詳しく。
これはもう5年前の出来事になりますが、私が目に見えないものの存在をはっきりと確信するきっかけになったものです。
何を見たのか忘れましたが,写経ならぬ写仏というものがあることを知りました。
写仏とは、仏様の画の上に紙を置いて写し描くことです。
自分で描けたらいいなと思い、やってみることにしました。
細かい絵なので時間はかかりますが、出来上がりは自分でも感動するほど荘厳な感じがします。
その人の生まれ本尊などを描いては友人たちにプレゼントもしていました。
ちょうどそのころ海外に移住する友人がいたので、少しでも日本らしいものを贈ろうと思い、何枚かプレゼントすることにしました。
(今思うと、宗教の違いなどもあったのでしょうが、そんなことも省みず・・・困ったプレゼントだったかもしれませんね。)
ある日出来上がった数枚の写仏画をコピーするため、原付のポケット(足の前・内側にある小さな荷物入れ)に入れ、出かけました。
写仏画は半紙よりも薄い美濃紙というものに描いてあり、A3サイズより少し大きいため、
破れないように普通紙にコピーしようと思ったのです。
穏やかに晴れたある春の日、いつもの道を走っていました。
大きな交差点で信号が変わったので走り出すと、隣の4tトラック(保冷車)が急に左折し、
交差点の角のガソリンスタンドに入ろうとしました。
私はちょうどその時トラックの真横にいたため、運転手の死角に入ってしまいました。
そう、悪いお手本のように、完全に左折に巻き込まれる形になってしまったのです!
「やばいっ」と思った時には、原付のタイヤがトラックにぶつかり、私は原付もろとも倒されてしまいました。
ガソリンスタンドの店員が気づき、大慌てでトラックを制止しようとしているのが見えました。
よく聞く話ですが、本当に事故のときってスローモーションになるんですねえぇ。
以下、これは1秒くらいの間の出来事ですが:
「あ、転んだ。この後はトラックに轢かれる?いや、わざわざ轢かれてやる事もない、立てばいいんだ。ホラ」と、
その場にぱっと立ち上がりました。
運命というのか何と言うのか、幸いにも着衣のどの部分も原付に引っかかっていなかったので、よかったのです。
そのまま原付がトラックの真ん中に引きずり込まれていくのを、ぼーぜんと見ていたのでした。
トラックのスピードが出ていなかったのも良かったのですが、運転手は夜勤明けでボーっとしていたためか、
店員の制止にもなかなか気づかなかったようです。
私も信号待ちの時点で、トラックの真横に入らないようにしなければいけませんでした。
とにかく私は、服にかすり傷すらもつかなかったくらいでした!
原付は、というと、もちろん使い物にはなりません。そのまま廃車になってしまいました。
そして、原付のポケットに入れてあった写仏画はというと、これもまったくの無傷だったのです!
あんなに薄い紙を、筒状に巻いただけだったのに、破れも汚れもしませんでした。
いや~さすがにあの時は紙の筒を握って感謝しましたよ。
そして「守られた」と強く確信しました。
それ以来、あのときの気持ちを持ちつつ、ずっと写仏を続けています、となれば美しく締めくくられそうですが・・・
当時看護学生だった私は、勉強の忙しさに埋もれていき、写仏をする暇はなくなってしまいました。
でも、この1件では目に見えないものの力を体感し、その後の私の人生に影響を与えることになりました。
神や仏などの目に見えないものの存在を「信じる・信じない」ではなく、「存在している」ことがわかったのです。
これは頭で理解することや、理屈を並べてわかるというものではないように思います。
なんだろう。当時の気持ちで言えば、「心でわかった」というのが一番近いのかな・・・
ただ単純に「命を助けてもらったからありがたい」だけではないのです。
もちろん、死ななかったからこそ今があるという点では感謝なのですが、
目に見えないものの存在は、人間の物理面の都合のよさだけをかなえるものではないと思います。
今我々が目にしている物理面だけが「生」だという認識はないはずだからです。
時には怪我、病気などを通してでも、その人が肉体にいるうちに学ぶ必要があるものを持ってくることもあるのでしょう。
それを神というのか、仏というのか、天使というのか、呼び方はわかりませんけど。
このときの私には「死ぬほどびっくりさせて、目に見えないものの存在を知らせる」為にハイアーセルフが導いたのか・・・
でもやっぱり、痛いのや苦しいのはいやですねえー。皆さんも安全運転で。
これはもう5年前の出来事になりますが、私が目に見えないものの存在をはっきりと確信するきっかけになったものです。
何を見たのか忘れましたが,写経ならぬ写仏というものがあることを知りました。
写仏とは、仏様の画の上に紙を置いて写し描くことです。
自分で描けたらいいなと思い、やってみることにしました。
細かい絵なので時間はかかりますが、出来上がりは自分でも感動するほど荘厳な感じがします。
その人の生まれ本尊などを描いては友人たちにプレゼントもしていました。
ちょうどそのころ海外に移住する友人がいたので、少しでも日本らしいものを贈ろうと思い、何枚かプレゼントすることにしました。
(今思うと、宗教の違いなどもあったのでしょうが、そんなことも省みず・・・困ったプレゼントだったかもしれませんね。)
ある日出来上がった数枚の写仏画をコピーするため、原付のポケット(足の前・内側にある小さな荷物入れ)に入れ、出かけました。
写仏画は半紙よりも薄い美濃紙というものに描いてあり、A3サイズより少し大きいため、
破れないように普通紙にコピーしようと思ったのです。
穏やかに晴れたある春の日、いつもの道を走っていました。
大きな交差点で信号が変わったので走り出すと、隣の4tトラック(保冷車)が急に左折し、
交差点の角のガソリンスタンドに入ろうとしました。
私はちょうどその時トラックの真横にいたため、運転手の死角に入ってしまいました。
そう、悪いお手本のように、完全に左折に巻き込まれる形になってしまったのです!
「やばいっ」と思った時には、原付のタイヤがトラックにぶつかり、私は原付もろとも倒されてしまいました。
ガソリンスタンドの店員が気づき、大慌てでトラックを制止しようとしているのが見えました。
よく聞く話ですが、本当に事故のときってスローモーションになるんですねえぇ。
以下、これは1秒くらいの間の出来事ですが:
「あ、転んだ。この後はトラックに轢かれる?いや、わざわざ轢かれてやる事もない、立てばいいんだ。ホラ」と、
その場にぱっと立ち上がりました。
運命というのか何と言うのか、幸いにも着衣のどの部分も原付に引っかかっていなかったので、よかったのです。
そのまま原付がトラックの真ん中に引きずり込まれていくのを、ぼーぜんと見ていたのでした。
トラックのスピードが出ていなかったのも良かったのですが、運転手は夜勤明けでボーっとしていたためか、
店員の制止にもなかなか気づかなかったようです。
私も信号待ちの時点で、トラックの真横に入らないようにしなければいけませんでした。
とにかく私は、服にかすり傷すらもつかなかったくらいでした!
原付は、というと、もちろん使い物にはなりません。そのまま廃車になってしまいました。
そして、原付のポケットに入れてあった写仏画はというと、これもまったくの無傷だったのです!
あんなに薄い紙を、筒状に巻いただけだったのに、破れも汚れもしませんでした。
いや~さすがにあの時は紙の筒を握って感謝しましたよ。
そして「守られた」と強く確信しました。
それ以来、あのときの気持ちを持ちつつ、ずっと写仏を続けています、となれば美しく締めくくられそうですが・・・
当時看護学生だった私は、勉強の忙しさに埋もれていき、写仏をする暇はなくなってしまいました。
でも、この1件では目に見えないものの力を体感し、その後の私の人生に影響を与えることになりました。
神や仏などの目に見えないものの存在を「信じる・信じない」ではなく、「存在している」ことがわかったのです。
これは頭で理解することや、理屈を並べてわかるというものではないように思います。
なんだろう。当時の気持ちで言えば、「心でわかった」というのが一番近いのかな・・・
ただ単純に「命を助けてもらったからありがたい」だけではないのです。
もちろん、死ななかったからこそ今があるという点では感謝なのですが、
目に見えないものの存在は、人間の物理面の都合のよさだけをかなえるものではないと思います。
今我々が目にしている物理面だけが「生」だという認識はないはずだからです。
時には怪我、病気などを通してでも、その人が肉体にいるうちに学ぶ必要があるものを持ってくることもあるのでしょう。
それを神というのか、仏というのか、天使というのか、呼び方はわかりませんけど。
このときの私には「死ぬほどびっくりさせて、目に見えないものの存在を知らせる」為にハイアーセルフが導いたのか・・・
でもやっぱり、痛いのや苦しいのはいやですねえー。皆さんも安全運転で。
Posted by ピュアライト at 11:32│Comments(0)
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